OEBest論と宇宙
万物全てに進化があり、至高の美しさを求める心があるのでしょうか。静かに耳を澄ますと久遠の彼方から虚空の楽器の音と共に「さらに健康になるように。もっと豊かに多幸になれよ」と、天空から人生の応援歌が聞こえてくるような気がしてなりません。
朝日と夕日の波動の違いを身体は感じ取っています。夕焼けの空が消え、金星と淡い三日月を浮かべた空から、満天の星座へ時は流れ、全ての色彩は微妙且つ大胆に変化して行きます。
千変万化する雲や陽の輝き、真夏の稲光(いなびかり)と落雷を伴う大粒の激しい雨音。大木
を揺さぶる強風。荒れ狂いうなりを上げる海。ほほをなでる春風や春の海。地球の自転と公転が生み出す春夏秋冬は、一度としてとどまることを知らない万象の移り変わり、華やかな舞踏会の世界と、俳句や茶の湯のわびやさびの趣の雰囲気をかもし出してくれます。 大気圏外に打ち上げられたハッブル望遠鏡が映し出す限りなく美しい宇宙。光の速さで150億年間も拡大を続けてきた無限とも思われる宇宙空間に、私たちは共に誕生しました。酸素の無い青酸カリを含む混沌とした80℃の海水の中で誕生した生命は、40億年の壮絶なドラマを乗り越え進化して来たからこそ、その中で培われた人間としての途方もなく豊かな才能を備えてもらうことができたのではないでしょうか。そして同時に、だからこそ私たちの今があり、自分自身の中に備えられた奇跡としか言いようのない、天空の子、人間、人体、心、魂、健幸を創造する能力を自覚し、自己に備わる能力の卓越した素晴らしさに、私たちは感謝すると共におおいに誇りと自信を持ってよいのではないでしょうか。
宇宙で起きた想像を絶する出来事が、結果的にこの素晴らしい地球上の自然界や私たち人間に至る生命を誕生させてくれました。宇宙で起きた総ての現象、全ての出来事が、あらゆる生命を産み出す上で必要であり、必然であり、最善だったのではないでしょうか。何ひとつとして証拠がないことですが、当然のごとく確信してよいのではないかと思われてなりません。
上記のように、宇宙の進化と全ての出来事が、必然、必要、有効性、ベストであったように、宇宙や生命だけではなく、私たちの人生に起きる大小全ての出来事もまた、必然であり、必要であり、有効性であり、最善であると確信できるのではないでしょうか。
こんな格言がありました。それは、One, everything happen for the bestというものです。直訳すれば「誰でも、私たちの人生に起きる全ての出来事は、必然、必要、有効性、ベストである」という内容のものです。上記、格言から6文字を取って『OEBest(オーイーベスト)論』としました。
OEBest論を説明するのには星の数ほど事例があると思いますが、その中から2つのテーマにスポットを当てたいと思います。
ひとつは、リチャード・アッテンボロー監督により映画化されたインド独立の父といわれるマハトマ・ガンジーの、無抵抗主義による勝利の概要です。もうひとつは、自己の肉体面に起きた難題としてヘレン・ケラーのこと。いずれも後ほど、その内容を記述して考え直してみたいと思います。
有名になった人たちだけでなく私たちの身近にも、OEBest論の事例は多いと思われます。我が身に起こる難題と敵対するのではなく、それらを活かして幸せになって、感謝し、社会に役立つよう利他愛で生きると、その想いは宇宙創造のエネルギーと共鳴し、現象化していきます。
思考パターンの転換
プラス発想やプラスイメージが重要不可欠であり、マイナス思考を持つことは良くないと誰もが認めるところです。ただし、プラスイメージやプラス思考、プラス言動が良いと知っていても、それ以上深くその重要な内容について考えず、悪い結果を生み出すと思われるマイナス思考をしている人が多いようです。
例えば、夫婦間や家庭内、職場や友人知人関係においてマイナス思考や言動を何の躊躇もなくノンブレーキで行っている人もいます。人や物事の評価も、余り調べずに自分の立場からの良し悪しで考え付いた批評を言葉に出してはいないだろうか。この場合、その場に批評されている本人がいたらどう思うでしょうか。これは決してプラス思考ではなくマイナス思考だと思います。また、ある出来事や人に対し、思考や感情的に憎悪や怒り、妬みや嫌悪感を多少なりとも持つようなことがあったら、それもマイナスであると思います。
しかし、身に起きる全てのことを認めるだけではなく、さらに積極的プラス発想から我が身に起きたことを有効性ベストと考えることは、重要な価値があるということは分っていても、なかなか素直に認められるものではありません。
小さなことでも、言い訳をしたり起きたことや降りかかってきたことに何でも不平不満を言いたくなるのが、ごく普通の一般的な思考かと思われます。全てのことに意味があり、しかも自己にとって有効性であるにもかかわらず、自己に降りかかる仕事や出来事を受け入れられずに、先ずは、避けようとする余りに拒絶反応のためのアクションが強く出たりしがちです。また、起きたことをいちいち非難したり、防御や攻撃的仙略思考が出来上がっていて、意識的、無意識的に弁解や攻撃思考を持つことが最善策として身に付いてしまっていたりすることもあります。
時には真正面から攻撃を仕掛けて相手や出来事をつぶそうと戦ったりする、何とも短兵急な行動パターンが潜在意識に刻み込まれてしまっている人がとても多いと思われます。それは自分の可能性をつぶし、幸運を逃してしまっているにも関わらず、そのこと自体に本人は気付けません。仮に気付けたとしても、表面的に直そうとするだけでは到底直りません。本人がよほどしっかり決断をして、自己暗示を繰り返しかけていかないと直らないでしょう。
インド独立の父、ガンジーのイギリスからの独立を勝利に導いた行動と、その人生ドラマは、マハトマ・ガンジーの思考の基底にある“命を掛けてもゆるぎない「哲学」”から導き出されたものであると言えます。
ガンジーの一生を描いたドラマが、観衆に与える“感動と教訓”は、ドラマの中のガンジーの考え方や、その思考から導
き出される行動にあると言えるでしょう。と同時に、その行動が植民地政策の支配者であるイギリスに与える心理的影響と、それに対してイギリスの起こすリアクションの内容と大きさが、ドラマに描き出されることになり、観衆はそのドラマの内容に興味を持ち、感動し、興奮し、強烈に引き込まれるわけです。
マハトマ(偉大なる魂の意)と称されたガンジーの行動は、何処から来ていたのか?・・・それは、ガンジーのベースにあるコンセプトである「想い(哲学)」から、導き出された結果としての行動によるものであり勝利であったと言えます。
したがって、観衆は、自分でも気付かないところでガンジーの“哲学(想い)”に共感し感動し強烈に引き付けられ、また、強力に興味を持ちガンジーを尊敬し、世界史の人物の中からガンジーを最も好きになっている人も多いのではないでしょうか。
病気と同じように、真の原因や病気の持つ役割が分らないために見当違いによりやたら攻撃を仕掛け、薬害や副作用で我が身にダメージを与えてしまうように、自分にもたらされる出来事の有効的な真の内容が理解できないために攻撃したり、出来事から逃げたりして、ベストなことを逃がし、我が身をひどく傷つける結果になってしまうのです。
先ほども挙げたように、まず気付こうとすることが大切です。そして気付いたら繰り返し自己暗示をかけることが、自分を高めることにつながるのです。
仕事やプライベートに於いて人生が順調である時は、行っているレベルや多くの事が、自己の得意な分野領域にあると言えるのではないでしょうか。一般的に仕事レベルはとどまることなく、万般に亘って常に高度な技術やサービスを要求されるようになります。普段から一生懸命十二分な努力をして、自己の技能や器量を日々高めているなら問題ありませんが、例えば高度化したニーズについて行けなくなり、お客様や会社からの要求に順調に対応できない場合、諸種トラブルが発生してきます。ここで、ややこしい問題となるのは、本人が仕事へのトラブルの発生が自己の原因であることを理解していないところにあります。理解できるようなら大きな失敗をすることは無いのですが、問題の原因に気付かないのです。
人間の奇跡的な可能性
事例をご説明しましょう。耳が聞こえず、目で見ることができず、しゃべることもできない3重苦の障害という暗闇の中で、言葉も何も分らず、ただいらだち、押さえ切れなくなると物を投げつけ暴れるしかない女の子がいました。その女の子とは、ヘレン・ケラー(1880-1968)です。彼女はサリバン先生
という素晴らしい伴侶を得ることで大きく変りました。
ヘレン・ケラーは、アメリカの最高学府ハーバード大学の女子部を主席で卒業しました。また、5カ国語をマスターして、世界の障害者福祉に貢献、「奇跡の聖女」と呼ばれました。彼女によって世界中の多くの人たちがどれほど感動を与えられ、励まされ、希望を取り戻し、人生を好転させ、幸せになれたことか、これからの人たちも含めてその数はとても計り知れないと思われます。
三重苦という身体の障害は、ヘレン・ケラー自身にとっても、その家族にとっても、それは“不幸”以外の何ものでもなかったでしょう。でも、この障害がなかったら、ヘレン・ケラーは同じ障害を持つ多くの人たちやご家族の人たちに希望と喜びを与えることができなかったでしょう。歴史に名を残すほどの偉業を成し遂げることもなかったと思います。
しかもそれだけではなく、障害があったからこそ、ヘレン・ケラーは人の心や自然の機微を感じる喜びや、世界中のヘレン・ケラーを慕う人たちとの交流を通して、何十倍、何百倍もの喜びを味わうことができました。
ヘレンの言葉に「もしも、この世が喜びばかりなら、人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう」とあります。
困難・苦難と思える出来事に直面した時、「これも自分にとって必要であり、ベストなことなのだ」と受け止めることができるか。OEBest論を自分の中で腑に落とせれば、その後の人生はまったく変わってくるのです。
ところで、ヘレン・ケラーは「奇跡の人」として知られていますが、その奇跡はまさに「人体の奇跡」であることを証明した実験結果があります。2010年、脳科学の権威であるハーバード大学のルヴァロ・パスカルレオーネ博士が論文の中で、その内容について発表しました。
博士は、ヘレン・ケラーと同じような三重の障害を受けた人の脳を研究した結果、それまでは分らなかった、予想もしなかった、私たちの脳の隠れた能力を発見しました。
それは、とんでもなく素晴らしい発見でした。大変驚かされました。これまでの脳の研究によると、視力や聴力を使わなければ、その分野の脳は萎縮して活動を停止すると言うものでした。当然だと思われます。ヘレン・ケラーは目も見えず耳も聞こえないのだから当然視力も聴力も使っていないのだから、ヘレン・ケラーの脳の視覚野や聴覚野は萎縮し稼動していないはずでした。ところが、検査の結果ヘレン・ケラーの脳の視覚野と聴覚野は活発に活動していたということが今になって分ったのです。人間の脳には、目や耳の能力を補おうとして変化する脳があるということがわかりました。
ヘレン・ケラーの脳の視覚野や聴覚野は健常者とまったく同じように盛んにインパルスを発し活動していたのです。
何故、そうなったのか。ヘレン・ケラーは、サリバン先生の手の動き(手話)と感触を、形や色、音(視覚や聴覚)に見事に変換して脳の視覚野や聴覚野で受け止め健常者、つまり、目が見えて耳が聞こえる人のように理解していたのです。
ヘレン・ケラーは、健常者と同じように、小説などに登場する人々の心の動き、感情の複雑微妙なニュアンスを見事に理解していました。そればかりか土や木のぬくもり、季節による風景や紅葉の美しい色の移り変わり、東洋哲学に見るもののあわれさなど、日本の短歌に表現されるような自然界の機微を健常者と同じように深く理解することができたと自叙伝にも記しています。一般の人を遥かに超えるような感性が感じられます。
サリバン先生と触れ合う手話によって、その手と手の触感を通して、脳にあらゆるものの現実の姿が翻訳返還されてヘレン・ケラーの脳の視覚野や聴覚野に伝わり、ヘレン・ケラーの脳の視覚野や聴覚野で形や色、細やかな感情の「ひだ」とも言える微妙な動きまでもが健常者と同じように表れ感じ取っていたのです。
ヘレン・ケラーを知る世界の人たちは、ヘレン・ケラー特有の、ヘレン・ケラーだけの奇跡だと思い込んでいました。しかし、脳科学者たちは、これを冷徹にも真っ向から否定したのです。脳科学者たちは、ヘレン・ケラーがひとり限られた能力を発揮したのでもなければ、ヘレン・ケラーの奇跡でもない、と断言しました。それを奇跡というならば、その奇跡はヘレン・ケラーの奇跡ではなく、「脳に仕掛けられた、脳が持っているところの脳自体の奇跡」であり、「他の人たちの脳にも通常備わっている脳の能力なのだ、ヘレン・ケラーでなくとも同じ立場にある人たちは誰でも発揮することが出来る」と、脳科学者は発表しました。
脳自体の奇跡は、イコール、「人体の奇跡」と言えるでしょう。そして、そうした人体の奇跡は、盲ろう者だけではなく、誰にでも平等に与えられているのです。
難題が起こった時、多くの人は根本から解決し乗り切ろうとせず、その方法を知らないがために、出来ることなら少しでも早くそのことから逃げ出したいという気持ちが出てきてしまいます。
したがって、本来の人間としての力量が何時になっても発揮されず、また次に一寸した難事が起こると簡単に翻弄され、影の部分におびえ、時にマイナス思考になって落ち込み、ある時は反抗し、ストレスを抱え、生活全般に悪影響を出しながら深みにはまって行く。結局、もったいない事なのですが、根本的な解決をせず、自己の本心の要求にも気付かないまま逃げ出さざるを得ない状況に追い込まれてしまうが、そのこと自体にも気付かない。気付いても修復する真の勇気が出てこない。
ドラマの中では主人公の生き方に共感し感激する聴衆が、何故、自己のこととなると生き方や対処の仕方を変えてしまうのでしょうか。
それは、影を実態と勘違し、「始めからしょせん私には無理だ」という軽率な判断をしてしまう。自己に与えられ持っている無限とも思われる能力のあることに気付かず、溢れんばかりの自己に備わる能力の開発や潜在能力や潜在意識の活用など、今さらできるわけがないと否定します。多くの人たちが、そう思うことこそが賢いと愚かな誤解をして、大変もったいないことに完全に自らの能力を否定しています。
多くの人たちが、このような過ちを起こしてしまうために、自分では最善と思って行ったことが、否定的なマイナス的勘違い思考であるがゆえに、原因結果の法則が働くので当然のことなのですが、さらなる難事を呼び込んでしまう間違いの第一歩となり、さらに繰り返されて大難につながるということが、往往にしてありがちなのではないでしょうか。
ましてや、身近な人たちを含めてほとんどの人が「give and give論」や「大志論(great theory)」「OEBest論」「病気有効論」について時代的感覚から考えて否定的であり、ましてや潜在能力について言葉は知っていても活用方法を知らず、余り体験がないために、悩んでいる本人のことを考えて真意から否定的な考え方になるのは当然なことかと思われます。
身近な人たちは、自分たちが真実を知ったらビックリするような、人体や人間に備わる能力の可能性を、知らないがゆえに否定的な間違ったマイナス発想を真実と思い違えて、ベストと勘違いして、自分がそうするだけではなく周りの人たちにも親身にアドバイスをします。
多くの人たちが、自己の能力の限界を知っていると勘違いしているのです。また、限界を知ることが賢いように思い違いをしています。周りが大半そのような否定的な考えですから、子供でなくても大人までが、すっかり影響されて潜在意識にマイナス的否定意識が刻印されてしまうのです。
マイナス的否定意識が刻印された潜在意識が、問題解決への唯一のゲージとなり、物事を判断し決定を下す人生になるわけです。したがって、一般的な世間並みの生活はできても、抜きん出て成功するとか、大きな夢を叶えるとか、一般的レベルを遥かに超えることは何時になっても出来ず、四苦八苦して何とか生活しているということではないでしょうか。ひとつ間違えると大難に思い切り翻弄されてしまいます。
サリバン先生と触れ合う手話によって、その手と手の触感を通して、脳にあらゆるものの現実の姿が翻訳返還されてヘレン・ケラーの脳の視覚野や聴覚野に伝わり、ヘレン・ケラーの脳の視覚野や聴覚野で形や色、細やかな感情の「ひだ」とも言える微妙な動きまでもが健常者と同じように表れ感じ取っていたのです。ヘレン・ケラーを知る世界の人たちは、ヘレン・ケラー特有の、ヘレン・ケラーだけの奇跡だと思い込んでいました。しかし、脳科学者たちは、これを冷徹にも真っ向から否定したのです。脳科学者たちは、ヘレン・ケラーがひとり限られた能力を発揮したのでもなければ、ヘレン・ケラーの奇跡でもない、と断言しました。それを奇跡というならば、その奇跡はヘレン・ケラーの奇跡ではなく、「脳に仕掛けられた、脳が持っているところの脳自体の奇跡」であり、「他の人たちの脳にも通常備わっている脳の能力なのだ、ヘレン・ケラーでなくとも同じ立場にある人たちは誰でも発揮することが出来る」と、脳科学者は発表しました。
脳自体の奇跡は、イコール、「人体の奇跡」と言えるでしょう。そして、そうした人体の奇跡は、盲ろう者だけではなく、誰にでも平等に与えられているのです。今現在、盲目の東京大学の教授がいらっしゃることを最近知りました。思い起こしてみて下さい。障害であれ貧困であれ、暴力、健康問題、あらゆる出来事を逆手にとって幸運をつかんだ人たちのことが、脳裏に浮かんでくるのではないでしょうか。良きことも悪しきことも、心の向き合い方や対処の方法によって全て状況が一変します。わが身に起こる避けられない出来事を運命としてあきらめるのではなく、勇気を持って常に、“必然、必要、有効性、ベスト”として受け止め、最善を尽すならば必ずやベストの結果を生み出し、自分にも、周りにも、社会にも役立つ幸せづくりが出来るものと確信します。
想いの物質化
奇跡は、人体に備わる自己浄療能力(病気有効論)だけと限ったことではありません。人の「想い」もまた、奇跡を起こすのです。強く深い「想い」は“万物創造のエネルギー(宇宙意識・自然の摂理)”と共鳴現象を起こし、現象化したり、また、物質化します。時にそれは奇跡としか思えない、人知ではあり得ないようなことも、叶えてしまいます。そう考えると、不可能なことは世の中に何もないと思いませんか。
したがって、多くの人たちは自分とは一切関係なく、偶然に起きただけだと思い込んでいます。良きことも、悪しきことも、自分に起こることは全て、自己の“想い”である思考の集計により、必然的に起こるべくして起こっているのです。
強く深い「想い」によって、時として一見“不幸”と思えるような出来事も起こります。「起こることの全ては、自分にとってベストである」というOEBest論を理解できていなければ、その“不幸”な出来事に翻弄されてしまうでしょう。しかし、「この“不幸”というベールをかぶった出来事は、必要あって与えられた、自分にとってベストなプレゼントなんだ」ときちんと理解できていれば、“不幸”は不幸でなくなるのです。
脳の奇跡を記述したついでではないのですが、重要なことなので奇跡について少しだけ触れます。自然界では木の葉一枚や細胞ひとつにしても、人知で見たら全て奇跡のほか何者でもありません。桃の木は、自らの力で種から目を出し、根を出し、自からの努力で根から必要な水や栄養分を吸い上げ、太陽の光を利用して(光合成:光化学反応による化学合成して)成長し、やがて花を咲かせ実を付けます。
人体も同じです。受精した一個の自己の細胞が胎内を借りて、自らの力で人体を全てつくり上げます。目に見えるもの見えないものの全てが調和したところに、真善美、全てが整った素晴らしい 現象が生まれます。万物や人体、人生ま でが、目には見えないけれど間違いなく存在する「宇宙創造の意識(波動、エネ ルギー、素粒子、想い)」によって生み出 されている奇跡なのではないでしょうか。
アインシュタインの世界で最も美しいと いう数式が思い出されますが、 E=mc² は、小学校の高学年になれば普通の子供たちが解けるほど簡単なもの です。起こして見ましょう。
E=mc² ここから浮かんでくることは、エネルギーと物質と光(時間)は同一のものという、一見信じがたい宇宙の神秘であり、正に奇跡そのものであるように思えます。
沢山思い出されることが皆様もあると思いますが、もうひとつ取り上げるなら、アインシュタインが言った 「私がこうして研究に没頭するのは、私はただ神の御意思が知りたいだけだ」 という格言です。アインシュタインは、万物創造のベースとなる科学的法則を通して神の御意思知りたいと強い願望を持っていたことに思われることです。
アインシュタインが言った
「私がこうして研究に没頭するのは、
私はただ神の御意思が知りたいだけだ」
Albert Einstein
(1879~1955)
宇宙創造の意識(宇宙意識)というエネルギーは、宇宙を創り運行し、生命を創り進化させてきたように、超高度な創造の叡智と現象化させるエネルギーとして、人知を遥かに超越した愛なる叡智の光(波動)として、私たちを遠い未知なる未来へ導こうとしているように思われます。
この絶対的愛とも言える創造のエネルギーである宇宙意識は、波動や素粒子であり、人間や動物の想いや感情だと思われます。水は、分子や原子、素粒子によって構成され、つくられています。水という物質が、固体(氷)、液体(水)、気体(蒸気)、となると共に、波動やエネルギーにもなる同一の存在であるように、宇宙創造の意識(宇宙意識)というエネルギーは、目には見えない「想いを現象化」して、物語の台本のような筋書き(ドラマ)をおこし、素粒子(波動)や原子、分子、物質を動かし、または、それらを借りて「想いの物質化」を行うものと確信されます。
『OEBest論』つまり、「誰でも、自分に起きることは、全て最善
である」ということですが、自己に降りかかることをうまく乗り越えられなくて、実際はギブアップしたとしても、それは良き教訓として将来生かせるかもしれないのです。失敗として嘆き悲しむ必要は何もありません。落ち込んではいけないのです。その経験からより多くのことを学び、大志の遂行に向かって活かせたらおおいに役立つというものです。
とは言え、最初からあきらめたり「想いに対する意識がいい加減であったり、不安や懐疑心などマイナス思考を持つことは厳禁」です。自己や人類への幸せづくりに対するマイナス思考は破壊につながるからです。
しかし、とても自分では経験不足、根性や力不足で乗り越えられないと思われることであっても、決してあきらめる必要はないのです。『OEBest論』のフローな状態、give and giveの心を持つことにより、その場に立てば体内にある魔法とも思われるホルモンが勝手に活用されて、何倍、時によっては何十倍もの力やエネルギー、能力が発揮されるのです。とても普段出来そうもない人が、見違えるような効力を発揮して、とても無理だと思われていたことを達成した、ということは、現実に幾らでもあるのです。根性が勝るとか、根性がなければ乗り越えられないというものではありません。ましてや『OEBest論』は、「自創式総合健幸づくり療法」として7つの要因を総動員し、尚且つ自然の摂理に順応して乗り越え我が身の糧にして豊かな素晴らしい人生をつくろうというものです。「give and give」の心を持って感謝して真剣にことに当たれば、引力のような見えない創造の波動が働いて奇跡としか思えないことが起こるものです。信じる心が大切だと思います。
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